神戸ちぇき☆
2003/11/29
【魅惑のマッサージ】![]()
【秋の洋菓子フェア】
【モザイク・ハーバーランド】
【六甲アイランドへ行こう!】
【岡本へ行こう!】
【あの時の思い出】
【おまけ番外編 オーストラリア紀行】
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神戸やBaby Booを語るとき、やはりこれは外せないかな?
あの時の記憶を風化させないために、書きます。
読みきる自信がない方はここで引き返してください。
ありのままを書きます。
【阪神淡路大震災】
【阪神淡路大震災における日々の工夫】
☆ ライフライン編 ☆ 医療編 ☆ その他 ☆
【PTSD心的外傷ストレス 〜私の場合〜】
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【阪神淡路大震災】
95年当時、私は外科病棟に勤める4年目ナース。
1月15、16、17と3連休だったが、15日が仲良しの先輩の結婚式。
当初、帰省しようかと考えていたが、2次会にお呼ばれしていたので神戸に残っていた。
ちなみに2次会の会場は加納町交差点近くのお店。(CASHBOX近し)
ここで帰省していたら、私はあの揺れを体験することは無かったのだが、運命だったのであろう。
16日、午後7時ごろアイロンをかけていると、地震があった。
震度3。気持ち悪いと思いつつ、アイロンがけを続行。そして、いつものように就寝。
17日、午前5時46分、突然、ドーン!!と大きな音が!
最初、雷でも落ちたのかと思ったが、すぐに昨日の地震を思い出したその瞬間、大きな揺れを感じた。
悲鳴をあげ、布団を頭から被った。大きな揺れ、後ろでは、鍋が飛んでいる。
正直、「死」を意識した。
‘死ぬー!!まだ、お嫁にいってないのにー!!’と思った。
とりあえず、揺れがおさまったので、ドアを開けて部屋の外に出たそのとき、
長田区と近所の商店街の火災が目に映った。
今でもあの火柱は忘れることは出来ない。
私は当時兵庫区と言って、大火災のあった長田区の隣に住んでいた。
あの揺れだから、火災は生じるよな・・・と妙に冷静な自分もいた。
当時寮に住んでいたので、友人たちの安否確認へ、幸い無事。
その友人と先輩と3人で、寮の外でうろうろしていると、
会社の方(当時は企業病院勤務だったので、寮の近所には会社があった)が
車で来られていたので、その方に聞いてみた。
聞くと、その方は姫路から神戸へ車で出勤する途中で地震にあったらしい。
カーラジオを聞かせてもらった。「震度6津波の心配なし」わかったのは、これだけ。
実は、被災地はライフラインが遮断されているので、
自分達の置かれている状況が全くわからないのだ。
津波の心配が無くてよかった。
神戸の地形を思い出していただくとわかるが、海と山に囲まれているので津波がきたら、ひとたまりもない。
とりあえず、寮母さんの指示で、お風呂に水を溜め、いつでも避難できる準備をした。
(私の住んでいた寮は倒壊しなかった)
当時、私が勤めていた病院は前年の94年から改修工事中で規模を縮小して営業をしていた。
またナースの殆どが徒歩圏に住んでいたこと、兵庫区でも建物の倒壊は比較的少なかったなど、
マンパワーやハード面でも様々な幸運が重なったため、
報道にあったような大混乱とまでは行かずに済んだ。
友人の病院では駐車場が処置室になったり、
パジャマの上に手術用の服を着て対応に追われたりしていたらしい。
しかし、それなりの「震災後」が始まった・・・。
建物の被害は少なく、電気も当日の朝8時には復旧した。
テレビを付けて見た(私はとりあえず、待機を命じられた。)
東灘区から芦屋方面の阪神高速3号神戸線がひっくり返っていた!! ショック・・・。
近くには先輩の家もあったので心配だった。後に知った話。
友人の友人が、たまたま、阪神高速をそのとき通りかかったため、
命を落としてしまったことを涙ながらに話してくれた。
寮の外ではサイレン、ヘリの音・・・。
何をしていいか解らず。とりあえず、須磨区(長田区の西)から
非難してくる先輩を迎えられるように準備した記憶がある。
夕方になってやっと先輩到着。
先輩の話。大きな揺れのあと、窓を開けるといつもは視界が悪いのに視界が良すぎると感じた。
眼を下にやると、家が倒壊していてガス臭かった。
津波が来ると思い、ひたすら近所の人と、丘を登った。
仕事場が兵庫区なので須磨から兵庫へ移動した先輩。
長田区の火災の中を通ってきていた先輩に、なんだか震災が夢をみているようだといったら、
「夢じゃない。におってみー」と言われたので先輩の服をにおった。
すすのにおい。現実だった。
不安な夜だった。いつでも避難できる格好で、コタツに足をつっこみ
(余震で建物が倒壊しても足をとられないように)テレビと電気はつけて寝た。
翌日は職場へ。外来のナースが出勤できなかったため整形外科外来の応援に行った。
火傷の高齢、男性が来られていた。背中に大火傷。
歩行は可能で、しっかりしてらした。朝早くお湯を沸かしていたらしい。
指を骨折したかもしれない女性。普段ならここでレントゲンを撮って確定診断をするのだが、
レントゲン写真を現像する為の水がないので触診のみで診断せざるを得ない。
患者はこの方々以外にもいたと思われるが記憶が無い。
病棟では、水がないのでいろいろ苦労した。
手が洗えないので消毒液を摩擦でこするタイプの液を病棟のいろいろな場所に設置した。
風呂が入れないので体を拭くタオルを制限して配った。
汚水は全てトイレ用にした。痛み止めの薬を製造していた会社が倒壊したので、薬が変更になった。
患者さんがいないと思ったら、外で自衛隊の給水車を待っていらした。
余震の中でも、仕事はあるねんなーうちらって、と愚痴をこぼしつつ仕事をした記憶がある。
便秘にもなり、にきびもでき、いらいらもたまる・・・。ストレスは限界だった。
正直、なんで、神戸にいてんねんやろー、っと思った。
そんな中、徳島から復旧作業に来られていた方が、過労で入院。
退院後一時徳島に帰られたが、その後再び作業のため、神戸へ。
その際、病院に寄ってくださった。たくさんの差し入れを持って。
その差し入れは、確か軍手とか、生活必需品。生理用のナプキンもあった。
本来、受け取りはしないのだが、ありがたく頂戴した。とても嬉しかった。
また、別の市にも会社があったのでそこから毎日、
航路で全社員分のおにぎりと缶詰を運んでもらっていた。
米を炊く水がなかったので、毎日同じメニューでもありがたかった。
ある休みの前日、加古川の友人宅へお泊りに行った。
加古川はライフラインは復旧していた。JRも須磨駅から西は復旧。
私は兵庫区から、長田区を越えJR須磨駅までの片道7キロを歩いた。
同じように会社帰りの人も多かった。平常時なら電車で行く所。
もくもくと歩いた。リュックしょって。無言で。
須磨から電車で加古川へ。
同じ兵庫県内でありながらライフラインが復旧しているのと、いないのでは全く違う。
女性が化粧をしている。(私たちは化粧を落とす水が無かったので、常にスッピンだった)
正直、ショック。
友人宅のもてなしはありがたかった。お風呂に入れるのが嬉しかった。
あたりまえの事、フツーのことが非常に嬉しかった。
翌日、仕事もあるので早々に帰った。友人曰く、ゆっくりしたらいいと。
しかし、私はおいはぎに遭うからといって、帰っていったらしい
(私は友人に言われるまで、忘れていたのだが)
当時神戸の治安は悪化しており、男性でさえ、1人で歩くのは危険であった。
夢のような加古川から、現実である神戸に戻った。
そのあと少しずつ、神戸も落ち着きを取り戻した。
私が住んでいた所は、2月末に水道、3月上旬にガスが復旧したような気がする。
落ち着きを取り戻しつつも、高齢化、都市型地震が浮き彫りに。
比較的若い世代は、自分で復興してゆこう、仕事もあるなど、
予備能力や環境適応能力がある場合が多い。高齢者のなかにはそれが難しい方々も多い。
実際、孤独死、自殺が多かった。住み慣れた街に、戻れない等彼らのストレスは想像を絶する。
反面、コミニュティを大切にする動きも多くあった。
ボランティアの導入・活躍、親を無くした子どもの為の施設造り、心のケア等・・・。
あれから8年。
まだまだ課題が多く残っている。
失ったものもあれば、得たものもある。
震災・・・、忘れたくても忘れられない。忘れてはいけない。
神戸を語る以上、避けては通れない阪神淡路大震災。
何時も綺麗な神戸、楽しい神戸のみならず、震災の事実も知って欲しいと考え、書いてみた。
忘れないでほしい。
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【阪神淡路大震災における日々の工夫】![]()
ここでは、震災のとき得た日々の生活における、工夫を述べます。
私はこんなんしたよ〜、と言う方の投稿も お待ちしております(^^)メイルにて受け付け中です。
☆ライフライン編
飲み水の工夫
地震発生当日の夕方、自販機でお茶購入(可能な状況だったので)
冷蔵庫にストック(電気は回復していた)それ以外は、自衛隊の給水車から頂く。
この時友人と協力して、バケツにお水を確保する。
台車と、大きめのバケツ、ビニール袋は必須アイテム。
台車は重い水を運ぶのに効率的。ビニール袋はバケツにかぶせて、お水を入れてもらったら、
上で結んでこぼれないようにしておくのに必要。休日の仕事は水確保。
飲み水以外の工夫
@米をといだ後の水を捨てずに、トイレ流し用にキープ!
A仕事では、なんらかの処置後に発生する、汚水をトイレ流し用にキープ!
B顔は洗えないので、朝は化粧水で顔を拭いた。普段は勿論スッピンで過ごす。
(みんな、スッピンなので怖くありません^^;)
電気の工夫
当日の朝には復旧。半壊した家屋では、ブレーカーをOFFにせず避難された方々もあり、
通電に伴う火災が発生したという情報もあり。
避難の際は必ず、ブレーカーをOFFにしてください。
ガスの工夫
復旧を待つのみ。ガスは比較的、電気で対応可能なケースもあるかと。
調理は電気プレート、電磁調理器、電気グリルパンで代用可。お湯はポットで沸かせる。
知り合いはテント生活を余儀なくされたが、
炊飯ジャーでお湯を沸かすと、はやく沸かすことができることを発見したらしい…。
食べ物の工夫
@ ストックの重要性はこの時ほど強く感じたことはない。
A 震災の前日、スーパーへ行き、買い物をしていた(ラッキー)なので、
普段から食品はストックしましょう。缶詰は缶きり不用の物をおすすめ。
Bいつ避難命令が出てもいいように、缶詰はかばんの中に忍ばせていた。
Cガスはないので電気グリルで調理。仲間たちと一緒に作る。
D野菜の値段か高騰。比較的被害が少なかった地域に住んでいた上司から野菜を買って頂いた(感謝)
E全職員用に、おにぎりと缶詰を航路で毎日、届けられた、毎日おにぎりだったが、
缶詰は微妙に変化があったのでなるべく、違う種類の缶詰を選んだ(さんまの蒲焼が多かった…)
F休日はスーパーへ。並んで入る。
G大阪など被害の少なかった地域に行くときはここぞとばかり、食品を買う。
電気は復旧していたので、冷凍食品を多量に買った。
H加古川の友人宅へ遊びに行った帰り、食べ物は遠慮なくお土産として頂く。
友人はぶり大根をたいてくれ持たせてくれたが、タッパーに入れた。
タッパーを洗う水がないので、ジプロックに入れなおしてもらった。←ここポイント
I皿を洗う水がないので、皿の上にアルミ箔か、ラップをひいて洗わなくていいようにした。
☆医療編
トリアージ
まずはトリアージという言葉、聞いた事あるかな?
あの状況では私達医療従事者も被災者で多くの仲間を失っている。
人出のみならず、機械・機器も不足。酷な表現かもしれないが、
究極の状況、最小の環境で最大のパワーを発揮しないといけないため、
搬送されてくる方々に治療の優先順位をつける。
助かる可能性の高い重症な人を選別して処置をする。
骨折などのすぐに死と直結する可能性の低い人達は、
助かる可能性のある重傷者の処置が終わった後に処置。
具体例でいうと・・・。
テレビでこういうのを見た。震災のとき心臓マッサージをしている若手医師。
先輩医師が若手に聞く。
「何分、心マ(心臓マッサージ)した?」
「○○分です。」(数字が思い出せない)
「じゃ、いい(やめて、というニュアンス)次、来るから」
指示をした先輩医師の冷静な判断である。指示したほうも、
従った方も辛い選択であったと予想する。
平常時なら救えるかもしれないのに・・・。
それでも1%でも救命率が高い人を選択しないといけない。
つらい選択を強いられるのである。
非常回路
停電しても非常回路が回ることにより、電気の確保ができるシステム。
しかし、それも震災のときは、それは、どこかへ…。
病院のダメージが強いとそれも機能しない。
職員は入院患者の誰が人工呼吸器(電気必要)や
点滴ポンプ(機械で持続的に点滴を管理)を
使用しているか把握しているので、停電しても即座に賭け付け対応する。
呼吸器が止まればゴム袋のようなもので、手で空気を押しこむ処置をする。
点滴は可能なものは抜く。臨機応変な対応が求められた。
薬
薬を作っている会社そのものが倒壊。薬の変更は余儀なくされた。
消毒
手を洗う水はないので、手に擦り込む消毒液を病室の前と、トイレに設置。
白衣
いつも美しい白衣の天使であったが(^^;)
いつなんどき避難命令がでるかわからなかったので私服に、割烹着のよう予防衣を着て仕事。
冬場なので白衣では寒い、また動きにくいと言う配慮。
☆その他
通信
全くと言っていいほど被災当日は連絡は取れない。
電話は不通。現在のように携帯電話が発達していなかったので携帯電話が非常に役立ったらしい。
現在は携帯の回線も混乱すると、先日遭った宮城県・東北の地震で判明した。
NTTの安否確認用回線もあるので今後はそれを活用していく方法がある
(活用されない日々でありますように・・・)
心配な気持ちも察するができるだけ、被災地には災害時、
電話での連絡は控えたほうが良いと感じた。
安否確認
毎日、留守電の録音メッセージを変えていった。
こうすれば、メッセージの更新ができる状況と誰もが判断可能。
震災ファション
神戸と言えば、ファッションにおいてもおしゃれなイメージが強いと考える。
震災の時は、「震災ファッション」という言葉が生じたくらい、殆どの市民がトレーナーかセーター、
ズボン、背中にはリュック、そしてマスクといういでたちだった。
まずはトレーナー、セーターについて。これは震災発生時期が真冬であり、防寒用。
殆どの女性がズボンを履いた。
理由は簡単。瓦礫で足元が悪く、また何時避難命令が出てもよいように
動きやすい格好が必要であったから。
リュックも同様。また被災地外へ買出しをしたとき両手にたくさん、
生活必需品を持てるようにする為。
マスクは解体工事で発生する粉塵を吸い込まない為。
かずさんがこのような格好だったかは不明です(^^;
移動
鉄道編
一番早く復旧したのは、阪急神戸線西宮北口から東、梅田方面。
近隣の人たちは銭湯、買い物、仕事など様々な用事で、東へ、西宮北口の駅へ、徒歩で線路を歩いた。
JRは須磨駅から西、姫路方面が復旧。私は当時兵庫区に住んでいたが、
JR須磨駅までの片道約7キロを黙々と歩いた。神戸は、ご存知のとおり、東西平行に私鉄2本、
JR1本通っている。全線開通するまで、各線の各駅を徒歩で移動する方法もあった。
例えば、阪急御影駅から、JR住吉駅を渡り歩いて大阪方面の電車へ乗った。
この駅の間は徒歩で約20分。よく歩いたと感心する。
航路編
神戸は港町。
神戸が港町であったことに、このときほど感謝したことはない!!
船での移動が可能になった。今は♪リトクリで有名なモザイク。
モザイク前から大阪、四国方面へ1月25日航路がついた。
クルージングで利用される有名な船たちが被災者や、他府県からきた人たちを運んだ。
道路編
とにかく大渋滞であったため、原付やバイクが役に立ったのは言うまでもない。
寝るときの格好
震災ファッションで就寝。コタツでおねんね。
パジャマで着て布団で寝るスタイルは夢のまた夢〜!
コタツだと家具や梁が落ちできても、まず足は守れるかも!?という理由。
頭元にはリュックと懐中電灯。部屋の電気は消灯したが、テレビは常に情報チェックと、
暗闇が怖かったのでつけたままで寝ていた。また可能なら、一人で寝ないこと。
誰かがそばにいるだけで気持ちが違う。
目覚し時計
かけた覚えなし。というのも、毎朝ヘリコプターのパタパタ・・・という音で目が覚めていた。
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【PTSD心的外傷ストレス 〜私の場合〜】
PTSDとは、『通常の人が体験する範囲をはるかに越えた、
生命の脅威にかかわるような体験をした人が、ある期間を経てから、
何らかのストレスが契機となって生活に支障をきたした状態』とされている。
ベトナム戦争帰還兵の心の傷の研究から生まれた概念。
主な症状は‘ふるえ’‘吐気’‘フラッシュ・バック’など。震災の時はどう影響したか?
実は私が以前いた職場は震災における看護師・事務職員のストレス調査の対象となっていた。
地震後2ヶ月、半年、一年、など一定の期間をおいて、ストレス調査が行われた。
私は2年後、5年後調査を受けている。
調査をして頂いたのは、TVなどでもよく拝見する有名精神科医である。
彼は地震後8日目で神戸入り、ボランティア活動と職員のケアをした。
地震から2年経った私の精神状態。
結果は「軽度のPTSD」(――)5年後は正常に近くなっていたと思う。
今でも‘揺れる’とわかっているもの(電車、飛行機など)に乗る時はなんとも思わないが、
予定外に揺れるものは苦手である。しばらく心臓の鼓動がドクドクする。放心状態になる。
夜はよほど眠いか友人が泊まりに来ている時以外は、TVにタイマーを掛けるが、
つけたまま寝ないと気がすまない。‘眠りに陥る瞬間’に誰かがいるか、音がしていないと嫌。
これは、TVつけて被災地情報を聞きながら寝ていたあの時の癖なのかもしれない。
私はこの調査を受けて自分が『軽度のPTSD』であることがわかってよかったと思う。というのも、
こうやって文章にして語り、感情を整理できるからだ。
一般的に看護師って、日常業務の中では感情をコントロールする訓練を受けている。
逆に言うと、自分自身は感情を表出するのが下手。これはキケンらしい・・・。
あれから、8年経ったがあの時のことを語れない友人がいる。こうやって語る私もいる。
人それぞれだが、心のケアの重要性を感じる。
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六甲アイランドへ行こう!![]()
アクセス
電車の場合:JR神戸線住吉駅、または阪神電車魚崎駅から
新交通システム‘六甲ライナー’に乗り換える。マリンパーク行きに乗車。
車の場合:阪神高速神戸線魚崎出口、または摩耶出口から約10分。
阪神高速湾岸線六甲アイランド北出口。
六甲ライナーの場合:JR神戸線住吉駅と六甲アイランドを結ぶ、無人運転のモノレール。
住吉駅から終点のマリンパーク駅まで約10分、
六甲アイランド内の中央を直線的に往復するルートを採用。
料金が一律240円とちょっと高いねん・・・(-.-)
ポートタワーを背に撮影。 |
モザイクの建物をバックに、
デッキや堤防付近から 低い位置の美しい夜景が!! そして、ここでは愛を語る
カップル多し! |
手前の船は神戸コンチェルト。
ディナークルーズに向けて、
出港前。 |
モザイクから撮影。
右手から神戸海洋博物館、
ホテル・オークラ ポートタワー
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手前は出港中の
神戸コンチェルト。 奥はメリケンパーク・
オリエンタル・ホテル |
ポートタワー
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北公園から神戸大橋 を眺める。 |
北公園からハーバーランド を眺める。 |
北公園から三宮、
市章山を眺める。 (見えにくいけど・・・^^;)
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これは私が選んだ
アルザスのあんずのタルト。 アンズの上に乗った柔らかい
カラメルが香ばしくて 美味しゅうございました(*^^*) |
これは、アスザスの【パレビスタージュ】
雑誌で見たことあるひと、多いはず(^^)
見た感じ‘ザッパトルテ’風。
中はピスタチオとヘーゼルナッツの
ムースが2層になってます。 それをグラサージュという
ほろ苦いチョコレートでコーティング。 大人の味。
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